徳川幕府最後の藩主

天童藩

どことなく信長を思わせる風格がありますね。

天童織田藩は、信長の次男信雄にはじまる。
尾張・伊勢・伊賀・100万石の領主となったが、
嫡男秀雄は豊臣秀吉と抗争し、結局5万石(大和酷万石・上野国2万石)になった。
 三男信良は信雄の所領の一部、上野国で甘楽・多胡・碓氷併せて二万石を分与される。
 その子孫は出羽国村山へ転封、天童藩として明治に至る。









織田 信敏を救った 吉田 大八

長い武家の支配を打ち倒し、天皇を中心とする近代国家への

道を開いた明治維新は、天童の歴史にとっても大きな変革でした。

1868年、江戸城が平和的に開城されました。

しかし、幕府を助けた会津藩(福島県)、庄内藩(山形県)に対して、

討幕勢力は敵意をすてず、平和に事をすすめようとした

東北諸藩の努力にもかかわらず、ついに、会津で戦端が開かれました。

天童もこのような大きな流れの中にあって、その外にいることは許されませんでした。

 慶応4年3月、天童藩に奥羽鎮撫使先導役が命ぜられましたが、

藩主織田信敏が若年であったため、吉田大八が代理をつとめました。

天童藩は討幕派官軍の急先鋒となり、吉田は幕府領であった最上川以西が

これまで庄内藩によって管理されていたのをいろいろな難問を処理して

接収にあたり手腕を発揮しました。 しかし、薩長兵が最上川を下って

清川を突然襲ったことに憤慨した庄内軍は、六十里越街道を進撃して、

最上川の西岸まで迫りました。新庄に本拠をおく官軍は、天童藩、

山形藩、館林藩、土浦藩北目陣屋に出陣を命じ、

それを阻止しようとしましたが、兵力や兵器とも劣った官軍は、これを防ぐ事が出来ず、

庄内軍は天童城下に殺到しました。

手薄であった天童城をはじめ、天童の町のほとんどが焼き払われてしまいました。

 どうしても会津や庄内を討たなければ気がすまないという

薩長の主戦論に対して、東北と北越(新潟)の27藩は、白石に集まり、

1868年4月23日奥羽列藩同盟を作り結束を固めました。

これまで官軍派とみられていた天童藩もこれに参加しなければ

ならなくなりました。吉田大八は、同盟側より、奥羽鎮撫使先導役として

官軍を誘導した責任を問われ、追求を受ける身になってしまいました。しかし、

藩主に累がおよぶことをおそれ、山形の同盟軍本部に自首し、

6月17日小路妙法寺観月庵において切腹自刃しました。

天童藩の責任を一身に背負って自らを処した吉田大八は享年37才でした。

秋になって、会津の落城や米沢藩の北越での全滅により、

同盟軍の敗色は濃く、9月松に全面降伏となり東北戦争は終結となりました。







子孫・・・・1980年資料によると

織田信正   神奈川いすゞ動力機械課長





戻る         とっぷ          最後の大名とっぷ           次へ
























SEO対策 ショッピングカート レンタルサーバー /テキスト広告 アクセス解析 無料ホームページ ライブチャット ブログ